2011年09月30日

展示会に出展しました

9月28日には、東京都中小企業振興公社主催の、大手製造業とのコラボレーション交流会というイベントが立川のホテル会場で行われ、当社も出展した。
当社の展示物は未だ完成版ではないが、Androidソフトとクラウド型のセキュリティソフトである。
当展示会は非公開のそれで、予め参加企業は大手・中小問わず決められており、その意味では濃い人脈をつくる機会でもあり当社も力を入れて臨んだ1日であった。勿論、活動の本番はこれからのお客様への継続的な提案次第に移っていく。
今回は大手企業・中小企業とも製造業であり、中小企業側のプレゼン展示物も金型・部品・素材的な物が多かったが、ソフトウェア展示企業も4〜5社あり、徐々に製造業のソフト化も進んでいるように見受けられるが、やはり日本は製造業大国、という認識を新たにする会場の場面でもあった。
翻って今の日本のIT企業は、リーマン後の不況、大手製造業の海外移転、大手IT企業の海外オフショア化、ユーザ企業の統廃合やクラウド化による大規模IT開発の縮退、追い打ちを掛けての円高、などマイナス面ばかりが続き、IT業界全体の市場規模はピーク時の半分くらいになったのではないかと囁かれてもいる(多重請負構造を割り引いて考えると)。
当社のような組込主体のソフト会社も時代の流れには抗しきれず、スマホやクラウドのソフト開発に移行せざるを得なくなり、日本のお家芸であるデジタル製品への組込エンジニアの減少は国の損失でもあると憂えるのは私だけであろうか?。
なんとしても日本の製造業の根幹の重要な1つは組込エンジニアの存在でありその層を維持させることが国力の発展に繋がるし、そのための国の施策が望まれる、と私は言いたいところである。
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2011年09月22日

台風15号

9月21日は台風15号が前日の東海地方直撃の勢力を更に増して東京や関東を通過し東北沖に時速50〜60kmで駆け抜けていった1日であった。
被害も甚大でおそらく政府も激甚被害の対策をとることだろう。
私は昭島市にある東京都中小企業振興公社のセミナー会場にいて台風の風雨のものすごさを音で感じていた。セミナー修了後は、暫く様子見をし、やや風雨も収まったかに見えたので外に出たがたちまち傘を折られ横殴りの雨で直ぐにビルに引き返した。
さらに暫く待っていると周囲の同セミナー参加者の中にクルマで来られた方がおり運良く同乗させて頂いた。最寄駅のJR西立川駅に着けてもらいお礼を言って改札に向かった。そうしたら案の定というべきか電車が運休している。再開メドの情報は無い、と駅員さんは言う。そのうち風雨は更にひどくなり駅から見える近くの昭和記念公園の大きな立木はまさに倒されんばかりのしなり具合あった。木も頑張っているけど、その木に泊まっているであろう鳥たちもどうしたんだろうと心配をしてしまう。カラスの鳴き声もかすかに聞こえた。約2時間ほど西立川駅で待たされ、風は未だ残っているが雨も収まりかけたので再度駅員さんに「運転再開はいつ頃になりますか?」と尋ねても「未だ情報が無いんですよ すみません」という答え。情報過多のこの時代に情報は無い、というのはどういうことなんだろう?。情報は入っているけど客には伝えられないという情報統制でもあるのか、本当に入ってこないのか、そもそも情報を取りに行こうとしてしているのか、等々いろんな想像をしてみる。私の出した結論は、JRローカル線は情報共有のための情報ネットワークとその活用が後れている、客への情報提供というサービスシステムが後れている、という2点である。これはこれでIT企業にとってはビジネスチャンスかも知れない。とはいえ、JRを批判しても始まらない、客は客なりに自己防衛をしなくてはスマホといういい情報手段もあるんだし、と思い直し外に出て5分ほど歩き表通りに出たら運良くタクシーが来たので立川駅まで載せて貰った。着いた立川駅はバス・タクシー共長蛇の列であった。中央線快速に乗り(これも安全運転のためノロノロ運転でひどく時間がかかった)、荻窪駅で下車しなんとか帰宅出来た。
久しぶりに台風という自然の猛威を肌身で感じた1日であった。
 蛇足だが、9月21日という日は、1999年の台湾大地震発生(死者・行方不明者4800人)、1934年の室戸台風(西日本を中心に大きな被害を及ぼした)、という大災害の歴史のある日だそうだ。
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2011年09月21日

歴史に学ぶ企業存続

ここ2年位ほどまえから池波正太郎の作品を愛読している。
去年は「鬼平犯科帳」を完読した。そして今は「真田太平記」に取り組んでいる。
ようやく8巻を読了したところだ。
真田家は真田昌幸の代に家を再興し沼田と上田に城を構えた。関ヶ原合戦の時には家長の真田昌幸とその次男幸村が西軍に、分家の家長だった長男の真田信之が東軍に別れ戦ったが、史上のとおり東軍の勝利に終わった。そして昌幸・幸村親子は高野山一帯の九度山に幽閉される。
こうした処置も長男信之の心労を尽くしての尽力によるものだった。やがて昌幸は九度山で逝去。その後、大阪の陣(冬・夏)に幸村は大阪城にて幕府群と対峙し壮烈な戦死を遂げるのだが、戦後も真田信之は幕府(徳川家康)から幸村と密約があったのではないかと嫌疑をかけられ釈明に奔走することになる。この嫌疑は晴れたが2代将軍の徳川秀忠の根深い嫌疑が残り数年後には上田から松代(今の長野市)に移封される。移った松代は以前より領地は広がったが土地が荒れ農民ですらその土地を離れるほどのひどいところだったらしく、藩主の真田信之は苦労に苦労を重ね、努力が実り漸くにして藩財政を立て直した。やがて、時は移り家康も亡く秀忠そして家光も逝って、家綱の代には将軍家指南役に任じられるようになり、一方でお家騒動(家督相続の争い)もあったがそれも解決し、往年93才でこの世を去った。以来、真田家は明治の始まりまで存続することになる。
真田一族は講談としては真田幸村が(徳川家康に対する反官びいきもあって)人気だが、私は忍耐に忍耐を重ね通してやがて一族を存続せしめた真田信之のほうに好感を抱いてしまう。日本人はえてして誰しもが、パッと花開き脚光を浴び散り際も潔い人物や所業に賛辞を贈るが、私は地道ながら着実に積み重ねていきやがて大成する生き方が好きなほうである。企業経営も急成長はあり得ないし(あるけど没落も早い)、社員教育も促成栽培はできない。やはり時間はかかるが着実に成長するのが経営の王道であろうと思う。
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